An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
リャビンカ−カリンカ
言葉について書いた文章を載せていただいた「文芸誌 リャビンカ−カリンカ」24号がページアップされました。A4版28ページ、年2回のペースで、ロシアをめぐるエッセイや翻訳が乗っています。→にリンクがありますので、ご覧ください。
出不精で、自分から文章を書いて出ていくということはほとんどないのですが、こうしてお誘いを受けて外に出てみると、自分のなかで新たに発見することもあって感謝しています。

紙とウェブ
ここ数回、言葉について書いていたのは、じつは紙の上に載ることになるはずの原稿の下書きの(といって悪ければ、下準備の)つもりでした。はたして、ブログ上で書くのと、紙の上に載せるために書くのとでは、大違い。書いたものについては掲載号ができてきましたらまたお知らせします。
ある人類学者が、たとえばノートひとつとっても、記録可能な範囲が制約されることによって観察したものの記録も制約されるというようなことをどこかに書いていましたが、原理的には分量無制限のはずのブログは(読んでもらうことを考えると)視覚的な限界を想定せざるをえず、言葉はどうしても短期決戦的なものとして、短く切り詰めざるをえないものなのかと、思いました。
この言葉の飛行距離は?
 日本独特の「私小説」を自己暴露の儀式ととらえた評論を読んで、なるほどと思ったことがあった。その本がすぐに手元に出てこないので正確な引用はできないのだけれど、「自己暴露の儀式」としての私小説がいかに近代日本の文化のなかで肯定的に受けとめられてきたか、それを著者のドイツ人女性が説得力をもって検証していたと記憶している。

 いま、その本のことを思い出したのは、ブログという最近の表現形態が、人によっては自分の秘め事を他人に見せているにすぎず、まさに「自己暴露」の横行にしか見えないらしいということを知ったからだ。他国の状況は知らないけれど、もし日本で増殖しているブログの内容がもっぱら自己暴露的であるとすれば、日本の近代以降続いてきた「私小説」の伝統はここにきて一気に「一億総私小説作家」にまで立ち至ったと見ることができるのかもしれない。

 もちろん、いまネット上にあるすべてのブログに目を通してその中身を断じることができるほどのツワモノが、