が、そこでの分析よりも、インタビューの最後で、「山田さんが出版社の経営をするとしたら」という質問に、「市場、ターゲットがものすごく狭くて、そこに確実に届くものを作ります」と答えていることが、極小特殊出版社としてはおおいに気になった。山田氏がいうように「狭いターゲットにきちんと届く本を作るなかで、たまにヒットするというほうが経営がうまくいく確率は高い」とすれば、ロシア文学に特化している群像社などはもっと経営がうまくいってもいいはずなのに・・・と。
山田氏が例にあげている実用書はともかく、文芸書となると出版の市場というのは、じつはどこかにコアのあるターゲットが目に見えるかたちで存在しているわけではない。かつてあちこちの大学に文学部のあった時代でも、文学部のある大学で群像社の本がよく売れたというデータはない。日本にはロシア文学を専門とする人びとの学会があって、毎年そこの全国大会に本を売りに行くけれども、この学会で集中的に群像社の本が買われているということもない。むしろそうした専門家の関心外のところで読者は潜在して、読みたい本が出てくるのを待ち構えているかっこうだ。
文学の需要と供給のバランスがもし作品ごとに、あらかじめはかることができるとすれば、文芸書の出版社に「はずれ」はない。けれども、そういう事態がいかに奇妙でおそろしいことか、それが作家にとってどんな圧力になるかということは、ストルガツキイが『モスクワ妄想倶楽部』で描いている。文芸書の市場が明確に目に見えないというのは、むしろ健全であり、あたりまえのことだと言わなければならない。

だとすれば、どんなにターゲットをしぼろうとも、こと文芸書に関しては「ギャンブル的要素」を消し去ることはできないということになる。読者の市場が特定できないどころか、本を出して何年かたってから、その本のまわりに市場が形成されるということもある。以前、自社の経営について「闇夜の綱渡り」と書いたことがあるけれど、あとから市場ができるとすれば、その綱渡りの綱を自分ではりながら渡っているようなもので、じつにアクロバティックな行為が文芸書の出版経営の現状といわざるをえない。
群像社が「狭いターゲットにきちんと届く本」を作ろうとしていることは間違いないとしても、企業と市場の関係は、商品を市場に向けて送り出すという業種とはひょっとすると正反対なのかもしれない。そうか、それならいっそ綱渡りの綱の張り方を逆転させる発想が必要なのか…。その姿とは?
出不精で、自分から文章を書いて出ていくということはほとんどないのですが、こうしてお誘いを受けて外に出てみると、自分のなかで新たに発見することもあって感謝しています。
ある人類学者が、たとえばノートひとつとっても、記録可能な範囲が制約されることによって観察したものの記録も制約されるというようなことをどこかに書いていましたが、原理的には分量無制限のはずのブログは(読んでもらうことを考えると)視覚的な限界を想定せざるをえず、言葉はどうしても短期決戦的なものとして、短く切り詰めざるをえないものなのかと、思いました。


