以前、「『罪と罰』注解」という本を出したときに(1990年)、著者のベローフの論文を引用して帯に「ゆっくり読む技術」といれたけれど、バブル景気に沸いていたその頃の日本では、その言葉はとても反時代的な響きをもっていた気がする。それほどにいつの世も速読が礼讃され、いきおい翻訳も超訳だろうがなんだろうが、とにかくすらすら読めるものが良しとされていた(それはいまも変わらない?)。当時からほどほどにひねくれていた(いまも?)私は、読みにくい原文なら読みにくい日本語に訳すべきじゃないかなんて思って、そんなことを実際どこかで口走ったこともあった。
それはともかく、仕事で文字の校正をするときには、スローリーディングどころか、「リーディング」すらなくなるほどの究極の遅読が良しとされる。校正を覚えたての頃、よく「読んではいけない」と教えられたけれど、それは意味をとりながら読んでしまうと一文字一文字を見ないで「目が走って」しまい、誤植を見落とすからという理由だった。
そんな校正作業のポイントのひとつに「漢字の統一」と言われるものがあって、ひとつの原稿や1冊の本で、ある文字を漢字にするか平仮名にするかで統一していく作業がある。プロの校正者に頼むと、たいがい、「思う」と「想う」と「おもう」が混在していると、どれかに統一しようとする。これをとっても嫌う書き手に何人か出会ったせいもあって、私自身はあまりこだわらない派だけれど、ただどうしても気になって平仮名にしたくなる字もある。
漢字を平仮名にすることを校正用語(業界用語?)で「ひらく」という(この「ひらく」は平仮名の「ひら」から来ているのだろうか、といま初めて考えてしまった)。たとえば「……して下さい」というときの「下さい」を「くだ」にするなら、それを「ひらく」という。これをひらかないで「下」に統一してしまうと、「これをもう少し下げて下さい」なんていう文章が出てきたときに、どうしても見た目が悪いと感じてしまうので、私は「ください」に統一しようとする。「できあがる」というのを漢字にして「出来上がる」にすることにも抵抗があるけれど、それはおそらく私の漢字習得史における「出来上がり」の最初がインスタントラーメンの袋にある作り方の最後の「出来上がり」だったからだろう。「出来上がり」と漢字にするとどうしてもインスタントラーメンが目に浮ぶので、まったく個人的な理由で著者訳者の了解が得られたら、これは「ひらく」ことにしている。
文脈をおって読んでいればなんてことのない漢字でも、校正中の遅読者にはひっかかる字もある。「時間がたつ」というときの「たつ」を「経つ」にすることには一見何の問題もないように思えるけれど、「その言葉の意味が一日経ってみたらよく分かった」なんて文章になると「日経」ってやっぱりよく分るんだったら購読新聞を変えようかなと思ってしまうし、それがまた「ひと月経って気づいたら驚くかもしれない」なんて文章になったりすると、「月経って」男はなかなか気づかないからなぁ、なんてあらぬ方向に連想が走って、やっぱり「経つ」より「たつ」に統一しようと思ってしまう。
そんなことを想うのは、おそらく意味をとらないように「読む」というのは実はとっても無理な作業を強いているからにちがいないからで、結局もとの文を読まないようにしようとしながら、知らず知らずのうちに違う文脈・文意を読んでしまうのだ。ページの後ろから読んだり下から読んだり、これまでいろいろ読まない工夫をしてきたけれど、どうしても誤植を出してしまうのは、やっぱりどこかで「読んで」いるからなのだろう。
漢字の読みは一通りではないのだから、変なふうに読もうと思えばいくらでも読めてしまうわけで、「日本風」とか「ヨーロッパ風」なんてときの「ふう」は平仮名では落ち着かないけれど、同じ「風」が「外がどんな風になっているのか見てみよう」なんていう文章に入ると、なめた人差し指で風向きをたしかめたくなってくる。だからつい数行前でも「変な風」じゃなく「変なふう」と書いたほうが私には落ち着く。
こだわるのもいい加減にしろと言われそうなのでそろそろやめるけれど、あとひとつだけ例をあげれば、翻訳書を中心につくってきたせいか、「わけ」を「訳」にするのだけは避けたいという思いが拭いがたくある。それは以前、他社の翻訳書で、読みにくい訳だなあと思って読んでいたときに「まったく訳が分らない」という文章がでてきて、「わからないのは『わけ』じゃなくて、あんたの『訳』だろう」とつっこみたくなったことがあるからで、自社の翻訳本のなかに「訳(わけ)がわからない」なんていう文章が出てきたりすると、ここで翻訳が悪いと思われるんじゃないだろうかと不吉な予感がして、おもわず緊張してしまう。だからできるだけ「訳」は「わけ」に直してもらうように、そっと鉛筆を入れて訳者に戻している。逆にそれがどんなに優れた翻訳でも「いい訳」と誉められたが最後、単になにかの「いいわけ」に見えてきたりもする。まったく遅読の校正ばかりしていると本当にひねくれてきて、ろくな読み手になれない。といいつつ、実は速読派には無縁の悩みを、けっこう楽しんでいるのかもしれない。だからこの文章のタイトルも「憂鬱」でなく「ユーウツ」で充分だと思った訳です。
それはともかく、重版となると、出版社としてはそのたびにどこまで「直す」かで頭を悩ますことになる。原則をいえば、奥付に「初版第2刷」として出すわけだから、奥付以外は「初版」をそのまま使って「刷」るだけ、つまりいっさい直さないで刷ったものを「重版」(同じ「版」を「重」ねて刷るの意味で)あるいは「増刷」(1刷…2刷…3刷…と増し刷りする)というべきなのだけれど、やはり初版を出してから見つかった誤植があれば直すし、著者や訳者からどうしても直したいといわれたら「初版」といいつつ、直してしまう。ただ問題はその「程度」で、以前は重版の直しは「頁が動かない範囲」(つまり次の頁に影響が出ないように)といわれたものだ。おそらくそれは、活字時代の印刷方法が「原版」(活字を組んだ状態)→「紙型」→「鉛版」というハードなものであったからだろう。行が動いて次々と直しが伝染していったら、もう活字を組み直した方がいいと印刷所の現場で言われてしまう。組み直せば当然これはもう別の版で、奥付は「第2版」とすべきもの。そのあたりから、いまでもなんとなくあまり極端な直しはしないものという意識がはたらいてしまう。
ところが、最近のようにコンピュータで組版をする時代になると、原版そのものがソフトなせいで、編集者でも簡単に直せてしまうから、逆に始末が悪い。たくさん直しても、「初版」ですといってそっぽを向いていられる。とくに最初の出来が悪かったりすると、できれは「初刷」「2刷」くらいまではなかったことに……なんて編集者のほうがいいかねない本も出てくるかもしれない(もうあるか)。かつて、奥付に「10刷」とある本で、どんなに探しても途中の「刷」が見つからないなんていう伝説があった。売れていると見せかけるために途中の「5刷」「6刷」あたりをすっとばして、「堂々第15刷」なんて広告を打つなんていう「ウラ技」を噂で聞いたこともある。いまふうにいえば「奥付偽装」ということになるのだろうか。「初版」の本の中味が最初の「刷」と最後の「刷」で大きく違っていたら、これも「奥付偽装」といわれても仕方がないのだが、いまのところ社会問題になっていないのは身体に影響がないからか……。
重版や増刷の直しの程度は、現実にはいまはほとんどどこでも編集者や出版社の「意識」(「良心」?)にゆだねられているのだろう。論文などでは文献表示に初版以外は「第×版」と入れるような基準があったと思うけれど、同じ初版であまりにも中味がちがっているようなら、「刷」までいれないと正確な文献表示ならなくなるということになる。それよりも、出版社があきらかに版をいじるような直しを入れたときには、すなおに「第2版」とすればいいだけの話かもしれない。初版で「はずかしい」思いをしたのなら、素直に「版を改めました」と反省して告知すればいい(と深く自戒をこめて思う)。そうでないと同じ「版」だと思って古い「刷」で買って読んだ読者に「だまされた」といわれかねない。
日本語は必ずしも書かれた通りに読まれるものではない。「は」を「わ」と読むのは小学生で習うこと、「いちろう」と「イチロー」を会話の中で厳密に発音し分けている人がどれほどいるだろうか。ソファとソファー、ショウウインドウとショーウインドー、プレイとプレーのどちらをとるか、編集者や校正係の独断で決めることはむずかしい。選択は基本的には書き手の好み。「ー」は日本語では「五十音」からはずれた「表音文字」であるだけに、その使い方もかなりアナーキーなまま存在してきたのかもしれない。
外国名に使う「ー」も声に出して読まれることを想定しなければ、別に問題にする必要はない。「シェイクスピア」でも「シェークスピア」でも「シェクスピア」でも、どっちだっていいということになる。ところが最近は、一編集者の小さな悩みなどをよそに、ちまたでは「ー」が増加の一途をたどって、「ー」なしでは一日も暮らせないくらいになっている。いや、「ー」にとどまらず、いまや従来の仮名づかいにはなかった音を示す記号を混在させた日本語が周囲にあふれている。
携帯メールでやりとりされている文章では、絵文字や顔文字などの記号が普通に使われている。「声に出したらこんな感じぃ〜」といった記号をはさんだ日本語。それは書き言葉というよりは、話し言葉の文字化・記号化といったほうがいいのかもしれない。テレビで話されている言葉をわざわざテロップの文字で補足しているのを見ると、もはや文字は音の付属物として扱われている気さえする。
書き言葉は声に出して読むことを前提あるいは想定され、「読む」ことの基準は「声に出すこと」に置かれてしまったのだろうか。たしかに、読みやすい文章というのは朗読にたえる文章だと言われることもある。文章を直すときには一度声に出して読んでみるといいでしょう、などとすすめられたりする(ちなみに、私はこの文章を声に出して書いてはいないから、読みにくいとしたらそのせいなんだろう)。だが耳に心地よい言葉だけが、「いい日本語」として流通してしまっていいのだろうか。文章によっては声に出して読んでいるとかえって意味が追えなくなる文章もある。黙読で文字を目で追いながら、あらぬ方向に想像力がはたらき、気がつくと読んでいることとはまったく違うことを考えていたりして、あわてて本に戻る、なんてこともある。私にとってはそれもまたひとつの読書の楽しみで、目と耳を同時に奪われてしまう音読だけでは、そんな脱線もなかなか許されない。
「ー」を声に出して読むときには、前の文字の音を何拍延ばすかという決まりを、少なくとも私は学校で教わった記憶はない。ケータイ小説(「携帯小説)とは書かないらしい)をちょっとのぞいてみても、「ーーー」や「〜〜〜」は、ごく当たり前に使われているけれど、これを声に出してどう読むかは、読む人(読ませる人)の気持ち次第か。読みのプロには1拍あるいは1.5拍が標準といった指導指針があるのだろうか。それがないとしたら、「ドストエフスキー」が、じつは「ドストエフスキーーー」と読まれていたとしても、文句は言えない。
このさき、「ー」に背を向けて生きていけるとは思わないし、その気もないけれど、日本語がつねに「声に出して読まれる」ことを想定されているかと思うと、いつも黙読しながら仕事をしている編集者は少しユーウツになる、いや憂鬱になる。そして、「ドストエフスキー」とするか「ドストエフスキイ」とするかで悩んで、しばしば仕事が前に進まなくなるのだ。(了)


