日本語は必ずしも書かれた通りに読まれるものではない。「は」を「わ」と読むのは小学生で習うこと、「いちろう」と「イチロー」を会話の中で厳密に発音し分けている人がどれほどいるだろうか。ソファとソファー、ショウウインドウとショーウインドー、プレイとプレーのどちらをとるか、編集者や校正係の独断で決めることはむずかしい。選択は基本的には書き手の好み。「ー」は日本語では「五十音」からはずれた「表音文字」であるだけに、その使い方もかなりアナーキーなまま存在してきたのかもしれない。
外国名に使う「ー」も声に出して読まれることを想定しなければ、別に問題にする必要はない。「シェイクスピア」でも「シェークスピア」でも「シェクスピア」でも、どっちだっていいということになる。ところが最近は、一編集者の小さな悩みなどをよそに、ちまたでは「ー」が増加の一途をたどって、「ー」なしでは一日も暮らせないくらいになっている。いや、「ー」にとどまらず、いまや従来の仮名づかいにはなかった音を示す記号を混在させた日本語が周囲にあふれている。
携帯メールでやりとりされている文章では、絵文字や顔文字などの記号が普通に使われている。「声に出したらこんな感じぃ〜」といった記号をはさんだ日本語。それは書き言葉というよりは、話し言葉の文字化・記号化といったほうがいいのかもしれない。テレビで話されている言葉をわざわざテロップの文字で補足しているのを見ると、もはや文字は音の付属物として扱われている気さえする。
書き言葉は声に出して読むことを前提あるいは想定され、「読む」ことの基準は「声に出すこと」に置かれてしまったのだろうか。たしかに、読みやすい文章というのは朗読にたえる文章だと言われることもある。文章を直すときには一度声に出して読んでみるといいでしょう、などとすすめられたりする(ちなみに、私はこの文章を声に出して書いてはいないから、読みにくいとしたらそのせいなんだろう)。だが耳に心地よい言葉だけが、「いい日本語」として流通してしまっていいのだろうか。文章によっては声に出して読んでいるとかえって意味が追えなくなる文章もある。黙読で文字を目で追いながら、あらぬ方向に想像力がはたらき、気がつくと読んでいることとはまったく違うことを考えていたりして、あわてて本に戻る、なんてこともある。私にとってはそれもまたひとつの読書の楽しみで、目と耳を同時に奪われてしまう音読だけでは、そんな脱線もなかなか許されない。
「ー」を声に出して読むときには、前の文字の音を何拍延ばすかという決まりを、少なくとも私は学校で教わった記憶はない。ケータイ小説(「携帯小説)とは書かないらしい)をちょっとのぞいてみても、「ーーー」や「〜〜〜」は、ごく当たり前に使われているけれど、これを声に出してどう読むかは、読む人(読ませる人)の気持ち次第か。読みのプロには1拍あるいは1.5拍が標準といった指導指針があるのだろうか。それがないとしたら、「ドストエフスキー」が、じつは「ドストエフスキーーー」と読まれていたとしても、文句は言えない。
このさき、「ー」に背を向けて生きていけるとは思わないし、その気もないけれど、日本語がつねに「声に出して読まれる」ことを想定されているかと思うと、いつも黙読しながら仕事をしている編集者は少しユーウツになる、いや憂鬱になる。そして、「ドストエフスキー」とするか「ドストエフスキイ」とするかで悩んで、しばしば仕事が前に進まなくなるのだ。(了)
初めての外国人名を片仮名で表記するときには、綴り字を基本にしつつも、せめてアクセントくらいは原音にのっとって定着させたいという気持ちははたらく。群像社で初めて出したペレーヴィンをペレヴィンにしなかったのは、「ー」なしで「ペーレヴィン」や「ペレヴィーン」と読んでもらいたくなかったからだ。映画監督の「ソクーロフ」も原音主義者ががんばれば「サクーロフ」になったかもしれないけれど、やはり「ソクーロフ」で落ち着いた。「ヴラジーミル」のように、ロシアでは「ヴラジーミル」でも英語圏に行くと「ヴラジミール」になるというような、ややこしい運命を担う名前にいたっては、ロシア派がかなりがんばっても「ウラジミール」派をまだ駆逐できないでいる。
いっそ混乱を避けるために「ー」をいっさい入れないという手もある。「ドストエフスキイ」をわざわざ「ドーストエフスキイ」とか「ドストーエフスキイ」とか「ドストエフスーキイ」と読む人はいないだろうと思えば、「ー」なしでもいいのかもしれない。実際、はじめて見る名前でアクセントの位置がはっきりしない人名もある。ドストエフスキイという名前も最初は「ドストーエフ」という地名からでていたから、「ドストーエフスキイ」と発音するのが普通だったいう。たしかに「ー」はやっかいだ。日本の新聞はそんな面倒に関わりたくないと思っているからか、それとも紙面節約のためか分からないけれど、極力「ー」をいれないようにする傾向があるようで、ロシアの大統領になったプーチンも当初「プチン」とされていたらしい。間もなく改められたようだが、もし、プチンのままだったら、この政権もこんなに長続きしなかったかもしれない? その前の「エリツィン大統領」については「イェーリツィン」を強く主張するロシア通の声があったものの、結局定着しなかった。(つづく)
この「ー」問題に日々仕事でつきまとわれている。なんでも「ー」は江戸時代に外国語を日本語で表記するときに前の音を引っばってのばすという意味で「引」の「|」をとって使ったのが始まりという説もあるくらいだから、ロシア文学の紹介や翻訳を仕事にしている以上、「ー」問題から逃れられないのは仕方ないのかもしれない。その問題とは、つまり、「ドストエフスキー」か「ドストエフスキイ」か「ドストエーフスキィ」か、はたまた「ドストイェーフスキー」か、という問題なのだ。
もちろんどの「ドス」も同一人物の作家で、違うのは翻訳された日本語のほうだけだ。この違いには学派のようなものがあって(と勝手にそう思いこんでいるのは私だけか)、「ー」の入れ方のこだわりを見ているとなんとなく大学の系列が浮かんで見えてくる。
では、わが群像社はどうかというと、創業者が早稲田大学の露文出身だったせいか、かつては「ドストエーフスキイ」派で、最近は「ドストエフスキイ」を推奨させていただいている。それでも、翻訳者や著者が「ドストエフスキー」でなければ嫌だと言えば引き下がらざるをえない。なぜ「スキー」ではなくて「スキイ」かと言えば、ひとつは「ー」が文字ではないという最前の理由もある。その点でいえば「ニイチェ」「ポォ」「ボドレェル」「ヴェルレヌ」といった音引き否定派に近いと思われるかもしれないが、なにも「ー」を敵視して締め出そうとしているわけではない。ロシア語の単語にはかならずひとつ「力点」と呼ばれる、アクセントを置いて強く発音する箇所があるので、それを日本語で示す必要があるときのために「ー」をとっておきたいという思いがあるからなのだ。つまり「チェホフ」でなく「チェーホフ」、「プゥシキン」でなく「プーシキン」というようにアクセントのある位置に音引きを使いたいというのが、「スキー」ではなく「スキイ」にしている、第一の理由なのだ。
もちろん日本語の「ー」は外国語を片仮名で表記するためだけに使われているわけではない。「先生」を「センセー」と呼ぶときの軽さ、「微妙」を「ビミョー」としたときの意味の違い。「ー」は日本語のなかできちんと機能していると言える。かつては「おかーさん」とか「おとーさん」という平仮名表記も慣例としてあったようだが、日本語の「標準」を決めるお偉い「センセー」がたが、これを禁止して閉め出したという歴史があるらしい。ロシア人名に多い「××スキー」の「ー」は、「センセー」の「ー」と同じではないかもしれないけれど、やはり語尾の「ー」には締まりのなさがつきまとってしかたがない。ちなみに、最後の「イ」はロシア語では「短いイ」と呼ばれる文字で、アクセントではないし、前の音を音を長く伸ばすという指示でもない。(つづく)


