それまで生きてきたすべての時間がまるまるぽっかり空っぽになったような「何だったんだろう」という呟き。詩人がその言葉をもらさずにはいられなかった1991年に生まれた子は、今年で16歳になる。ぽっかりあいた口から出てきたような世代、ということになるのだろうか。
ソ連崩壊後の十年と日本のバブル経済破綻後の十年がともに「空白の時代」と呼ばれていると思いこんで、最近それをタイトルにした文章を書いた(『リャビンカ・カリンカ』23号)。原稿を送ったあとになって「失われた十年」という言い方のほうが一般的らしいと知ったけれど、「失われた」も「空白」も「何もない」という意味では同じだろうということで書き直しはしなかった。「空白」をキーワードにして、『チャパーエフと空虚』の話にまでもっていったので、書き直しようがなかったというのが本音だけれど。
「失われた」にしろ「空白」にしろ、その「何もない」といわれた時代に成長してきた人がいて、人生を振り返って「何だったんだろう」と呟く人がいる。「充実した」「中身の濃い」時代の波に乗って生きてきた者からみたら、それは気の毒な世代の人間なのだろうか。「何もない」ことは「いろんなことがあった」より貧しいことになるのだろうか。
オクジャワの『ディレッタントの旅』の主人公は、改革を求めて闘った青年貴族たちの「熱い政治の季節」が去ったあとに現れた、いわば空白の世代の人間。彼は当時の社交界の規範からはずれた恋に走った。「中年」とよばれる、年齢的に期待される分別からもはずれたその恋は、皇帝をも不安にさせるほど「反社会的」だった。歴史に残るような時代の大きな波が去ったあとに出てきて、恋にひた走るこの物語の主人公の姿を、オクジャはくっきりと浮きたたせて見せる。たったひとり、波が引いたあとに砂に足をすくわれそうになりながら立っている人の手をとって包み込むような、そんなオクジャワの大人の恋物語。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)



