An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
声に出して読めない日本語(3)
外国文化の受容に大きく貢献してきた片仮名という便利な存在。そのなかで「ー」はおおいに力を発揮してきた。前の音を長く伸ばすという指示をするためだけの、日本語の中では例外的なこの記号「ー」を文字ではないからという理由でもし徹底的に締め出すとしたら、エレヴェタもエスカレタも動かなくなり、コンピュタもフリズして、サポトセンタに電話してもつながらない、なんてことになるかもしれない。いや、「ー」を使わなくても、エレヴェエタァやエスカレェタァに直せば動きそうだし、コンピュゥタァがフリィズしてもサポォトセンタァにならつなぐことはできるか。

日本語は必ずしも書かれた通りに読まれるものではない。「は」を「わ」と読むのは小学生で習うこと、「いちろう」と「イチロー」を会話の中で厳密に発音し分けている人がどれほどいるだろうか。ソファとソファー、ショウウインドウとショーウインドー、プレイとプレーのどちらをとるか、編集者や校正係の独断で決めることはむずかしい。選択は基本的には書き手の好み。「ー」は日本語では「五十音」からはずれた「表音文字」であるだけに、その使い方もかなりアナーキーなまま存在してきたのかもしれない。

外国名に使う「ー」も声に出して読まれることを想定しなければ、別に問題にする必要はない。「シェイクスピア」でも「シェークスピア」でも「シェクスピア」でも、どっちだっていいということになる。ところが最近は、一編集者の小さな悩みなどをよそに、ちまたでは「ー」が増加の一途をたどって、「ー」なしでは一日も暮らせないくらいになっている。いや、「ー」にとどまらず、いまや従来の仮名づかいにはなかった音を示す記号を混在させた日本語が周囲にあふれている。

携帯メールでやりとりされている文章では、絵文字や顔文字などの記号が普通に使われている。「声に出したらこんな感じぃ〜」といった記号をはさんだ日本語。それは書き言葉というよりは、話し言葉の文字化・記号化といったほうがいいのかもしれない。テレビで話されている言葉をわざわざテロップの文字で補足しているのを見ると、もはや文字は音の付属物として扱われている気さえする。

書き言葉は声に出して読むことを前提あるいは想定され、「読む」ことの基準は「声に出すこと」に置かれてしまったのだろうか。たしかに、読みやすい文章というのは朗読にたえる文章だと言われることもある。文章を直すときには一度声に出して読んでみるといいでしょう、などとすすめられたりする(ちなみに、私はこの文章を声に出して書いてはいないから、読みにくいとしたらそのせいなんだろう)。だが耳に心地よい言葉だけが、「いい日本語」として流通してしまっていいのだろうか。文章によっては声に出して読んでいるとかえって意味が追えなくなる文章もある。黙読で文字を目で追いながら、あらぬ方向に想像力がはたらき、気がつくと読んでいることとはまったく違うことを考えていたりして、あわてて本に戻る、なんてこともある。私にとってはそれもまたひとつの読書の楽しみで、目と耳を同時に奪われてしまう音読だけでは、そんな脱線もなかなか許されない。

「ー」を声に出して読むときには、前の文字の音を何拍延ばすかという決まりを、少なくとも私は学校で教わった記憶はない。ケータイ小説(「携帯小説)とは書かないらしい)をちょっとのぞいてみても、「ーーー」や「〜〜〜」は、ごく当たり前に使われているけれど、これを声に出してどう読むかは、読む人(読ませる人)の気持ち次第か。読みのプロには1拍あるいは1.5拍が標準といった指導指針があるのだろうか。それがないとしたら、「ドストエフスキー」が、じつは「ドストエフスキーーー」と読まれていたとしても、文句は言えない。

このさき、「ー」に背を向けて生きていけるとは思わないし、その気もないけれど、日本語がつねに「声に出して読まれる」ことを想定されているかと思うと、いつも黙読しながら仕事をしている編集者は少しユーウツになる、いや憂鬱になる。そして、「ドストエフスキー」とするか「ドストエフスキイ」とするかで悩んで、しばしば仕事が前に進まなくなるのだ。(了)
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