いま、その本のことを思い出したのは、ブログという最近の表現形態が、人によっては自分の秘め事を他人に見せているにすぎず、まさに「自己暴露」の横行にしか見えないらしいということを知ったからだ。他国の状況は知らないけれど、もし日本で増殖しているブログの内容がもっぱら自己暴露的であるとすれば、日本の近代以降続いてきた「私小説」の伝統はここにきて一気に「一億総私小説作家」にまで立ち至ったと見ることができるのかもしれない。
もちろん、いまネット上にあるすべてのブログに目を通してその中身を断じることができるほどのツワモノが、
ロシアの詩人マンデリシュタームは対話の相手として身近な知人や友人ではなく、自分の手紙を封印した海流壜をひろってくれる、見知らぬ偶然の名宛人を選ぶ。具体的な相手、同時代の聞き手ではなく、「非常にはるかな距離」をはさんで結びつく友に語りかける。自分も相手のことを知らず、相手も自分のことを知らないときに、自己本位の言葉は、おそらく相手に届く前に失速してしまうだろうと、詩人は考える。
もっぱら自分や自分の周囲の人間に語りかけるだけの言葉は、射程距離も短くていい。短距離砲だけに間近での破壊力はときにすさまじく、その気になれば相手も自分も容易に傷つけることができる。逆に、話したいと願って発する対話の言葉ははるかな射程をもって打ち出される。「火星と信号を交わすことは――もちろん空想にふけるのではなく――叙情詩人にふさわしい課題である」とマンデリシュタームは言う。
身近で言葉が増殖すればするほど、その過剰を突き抜けていく射程の長い言葉を、わたしたちは求めて聞こうとし、また求めて書こうとするものなのだろうか。わたしたちがその言葉を同時代にいながらにして交換することができるとしたら、それは稀有な幸福の体験というべきなのだろう。
*マンデリシュタームの文章は『詩集 石』http://gunzosha.com/books/ISBN4-905821-45-2.html所収のエッセイ「対話者について」(早川眞理訳、群像社刊)より
しかし、「発する言葉」はやはり気にしたいものです。言葉は大事ですから、一言ずつ大事に発したいと考えます。管理人さん引用の「抒情詩人に相応しい課題」がそこにあり、「自己暴露の横行」にならないよう、或いは、云われないよう気をつけたいところです。
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