An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
この言葉の飛行距離は?
 日本独特の「私小説」を自己暴露の儀式ととらえた評論を読んで、なるほどと思ったことがあった。その本がすぐに手元に出てこないので正確な引用はできないのだけれど、「自己暴露の儀式」としての私小説がいかに近代日本の文化のなかで肯定的に受けとめられてきたか、それを著者のドイツ人女性が説得力をもって検証していたと記憶している。

 いま、その本のことを思い出したのは、ブログという最近の表現形態が、人によっては自分の秘め事を他人に見せているにすぎず、まさに「自己暴露」の横行にしか見えないらしいということを知ったからだ。他国の状況は知らないけれど、もし日本で増殖しているブログの内容がもっぱら自己暴露的であるとすれば、日本の近代以降続いてきた「私小説」の伝統はここにきて一気に「一億総私小説作家」にまで立ち至ったと見ることができるのかもしれない。

 もちろん、いまネット上にあるすべてのブログに目を通してその中身を断じることができるほどのツワモノが、
いるとは思えない。仮にもし日本語で書かれたすべてのブログを読んだとしても、順番に読んで最後の文章にたどりついた頃にはきっともう新しいブログや記事が公開されていて、とても「読み終わる」ことはできないだろう。読み手よりも書き手のほうが多いと思わせる時代。出版の世界でも本を読む人より出したい人のほうが多いと思いたくなるこのごろ。読まれないまま世に出た言葉が、食べ残しの料理のように日々どこかにためこまれ、いずれそれが生ゴミの洪水となってわれわれに押し寄せてくるかもしれない。あるいは言葉は過剰発行によってインフレとなり、一気にその価値を暴落させるか。

 ロシアの詩人マンデリシュタームは対話の相手として身近な知人や友人ではなく、自分の手紙を封印した海流壜をひろってくれる、見知らぬ偶然の名宛人を選ぶ。具体的な相手、同時代の聞き手ではなく、「非常にはるかな距離」をはさんで結びつく友に語りかける。自分も相手のことを知らず、相手も自分のことを知らないときに、自己本位の言葉は、おそらく相手に届く前に失速してしまうだろうと、詩人は考える。

 もっぱら自分や自分の周囲の人間に語りかけるだけの言葉は、射程距離も短くていい。短距離砲だけに間近での破壊力はときにすさまじく、その気になれば相手も自分も容易に傷つけることができる。逆に、話したいと願って発する対話の言葉ははるかな射程をもって打ち出される。「火星と信号を交わすことは――もちろん空想にふけるのではなく――叙情詩人にふさわしい課題である」とマンデリシュタームは言う。

 身近で言葉が増殖すればするほど、その過剰を突き抜けていく射程の長い言葉を、わたしたちは求めて聞こうとし、また求めて書こうとするものなのだろうか。わたしたちがその言葉を同時代にいながらにして交換することができるとしたら、それは稀有な幸福の体験というべきなのだろう。

*マンデリシュタームの文章は『詩集 石』http://gunzosha.com/books/ISBN4-905821-45-2.html所収のエッセイ「対話者について」(早川眞理訳、群像社刊)より
コメント
この記事へのコメント
距離と時間
 言葉を「飛行距離」で捉えられ、面白いと思います。自分のって、どこまで行くのか考えるとわくわくもします。E-mailを書き出した頃、地球の裏側辺りまで、一瞬に行くのを知った時、これは凄いと感動しました。物理学では「距離と時間」はセットになります。ですから、今のネットに時代はもう、距離と時間は、実感出来ない、或いは、気にしなくても良い、と思えます。正に、「光ケーブル」の時代ですから、「光」の速度からしてこのようにも云えましょう。
 しかし、「発する言葉」はやはり気にしたいものです。言葉は大事ですから、一言ずつ大事に発したいと考えます。管理人さん引用の「抒情詩人に相応しい課題」がそこにあり、「自己暴露の横行」にならないよう、或いは、云われないよう気をつけたいところです。
2007/10/25(木) 04:36:34 | URL | 親泊(Oyadomari) #0OAgDEtE[ 編集]
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