じつはその傾向はいまでもをひきずっているところがあって、最新のベストセラーは相変わらず苦手だし、現役バリバリの作家の本に手をのばすことは、なんとなく敬遠している節がある。たまに読むにしてもたいがいはひとまわり以上の年長者の手になるもので、それもこの人には生きているうちに裏切られることはないだろうな、と思う相手ばかりを選んできた気がする。
ところがどうしたわけか今年は、ここのコラムで書いた三崎亜記にはじまって、偶然のアキつながりとなった佐藤亜紀がきて、ついいましがた読み終わったのがリリー・フランキー。
たしかに、このなかで佐藤亜紀の『ミノタウロス』は、読む前に多少下心のようなものがあった。物語の舞台が20世紀はじめのロシアとくれば、「いっちょこのコラムで書いたろか」と。ほんとうは読みはじめてすぐに「翻訳小説とは何か」みたいなコラムが書けるつもりになっていたのだが、読み終わってもなかなか書き始められない。のっけからまるでロシアの小説の翻訳を読んでいるような気分にさせられたこの作品を通じて、読み手の側にある「翻訳小説」という固定観念について、そして訳者や編集者がそれを意識しすぎるあまりに生まれてくるであろう妙にこなれた「読みやすい日本語」の翻訳について考えようとしたのだが、そんなふうに大上段に構えたのがいけない。
そもそもその前に自前であるはずのこちらの日本語がスラスラと出てくれない。そのうち、言葉なんて本来スラスラと淀みなく流れるように出るものなんだろうか、と開き直りがはじまる。もとが外国語で本来なら読みにくくても不思議のないはずの翻訳。それが「読みやすい」とはいったいどういうことなのか。それについて書こうとすればするほど、どんどんこちらの言葉はとどこおって、ごつごつして喉にひっかかるだけなのだ。もちろん、何度も何度も書き直していれば、言葉の通りはよくなってくる。だがしかし、喉ごしがよくなるにつれて、言葉はどこか自分のものでなくなるような気もする。よどみない言葉というのは、案外、「他人の言葉」でなければ実現しないものなのかもしれない。
兄の俳句がE-mail添付で送られて来ました。その宛先には米国在の叔母叔父が含まれていたので、日本語を知らない米国人叔父の為を思い、直ぐに英訳をして再送したら、この夫婦双方から「文学の英訳は困難」てひんしゅくを買ったのです。その際、では「超訳」はどのように考えますかって反駁したのです。俳句の英訳の出来、不出来はともかく、当方の良心的な英訳をそのように言われてしまい、叔父叔母と雖も、多少の憤りを含めて反駁してしまったのです。
管理人さんの最後の言葉「他人の言葉」を借りるとすれば、余り、賛成出来ません。少なくとも、クリエイティブな筈の「文学」だからこそ、「自分の言葉」で発信したいものです。でも、「英(露)文ーー>和訳(超訳)」には当方もまだ十分な理解をしているものではありません。原著者の「思想、思い」を壊しているのでは?と思うからなのですが。。。。。
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