人間は言葉を消さないために、残されるべき言葉を選んで書き留めてきた。石であれ紙であれ、木片や粘土板であれ、文字によって書かれた言葉は残り、あとからそれを読む人間よりも、ふつうは長く生きつづける。それでも、人間の歴史がはじまって以来、そうして書かれた言葉の量は、話された言葉の量に比べたら、圧倒的に少ない。
書き言葉を習得することすら、ある時期までは一部の階層に限られたことで、言葉を書き残すことも、手段と機会に恵まれた人間にしかできることではではなかった。それだけに、書き言葉は話し言葉に比べたら、はるかに厳選されたものであったはずだ。いまでも1冊の本をつくる場合を考えると、最初に書かれた言葉の山は、ふつうは削りとられ、磨きあげられ、減量された結果として本になっている。そのはずだ。
話し言葉は消える運命にあるがゆえに、無限に増殖することが許されてきたのかもしれない。声のつづくかぎり、意識のあるかぎり、ひとは言葉を話そうとするといっても言い過ぎではないだろう。それだけに「黙れ!」という命令は、人間にとってもっとも抑圧的なものとして響く。話し言葉を手放してはいけない。遭難して食べるものすらないときにも、人間は話すことで生きる望みを見出そうとする。話し相手が行き絶え、たとえひとりになったとしても。
ただ、その話し言葉が、仮にもしすべて記録として残される事態になったとしたら、言葉と人間の関係はどうなるのだろうか。
じつは、ブログをはじめるにあたっての、私の悩みのひとつは、そこにある。私たちはこんなに言葉を残してしまっていいのだろうか。
私は【おとなのコラム】というサイトの運営スタッフです。
ここで、読者の方々からお送りいただくコラムなどの書き物を毎週掲載しています。
そして、楽しい、素敵な文章を書く方を日々探しています。
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簡単ですがご挨拶です。
失礼いたしました。
遅くなりましたが、御礼申しあげます。
こうして見知らぬ方から返信を受け取ると、書いたことも無駄ではなかったかと少しは安心致します。そこからまた少し考えを組み立ててみます。
書く事に無駄はないと思います。必ず、誰かが読んでくれます。そして、感動とか影響を与える筈です。ブログ本文にあります、「こんなに言葉を残して良いか?」について非難している作家がおりました。「恥を躊躇も無く曝け出して。。。」との言い分でした。でも、言葉を書き残す事は、作家らの専らの特権ではありません。誰しも、自らの言葉を書き留めておきたいと思うのです。それが出来ない人が多いのは事実ですが、管理人さんのような才能の有る書き手は、沢山書き留めて欲しいと思います。そして、社会へ好影響を与えて欲しいのです。ブログはその為の素晴らしいツールだと見做せます。
ロシア文学そのものは、私にとって、大変敷居が高いのですが、外国語原書を読む事において私も同様(英文)な事をしていますので今後とも宜しくお願い致します。
映画、「クローズド・ノート」の行定勲監督の発言です。「他人に見せる為」は正しいでしょう。でも、「秘め事」は間違い。私のサイトでは、「秘め事」を書いているなんて有り得ません。自分で「内緒」にしているから「秘め事」になるのであって、公開してしまえば、その時点で「秘め事」ではなくなります。
「情報公開法」の立法の背景は、政府が隠し事をしてはならず、世の為人の為に有効な情報は公開せよ、との趣旨です。ならば、個人レベルにおいても、人の為になる有効な情報(アイディア、ノウハウ、思想など)なら公開したって勿論、大いに結構な事ですし、それこそ、その為にはブログは持って来いのツールだと云えます。何故、これらが「浅はかさと愚かさの露呈」と云えるのでしょうか?「現代の日記・ブログ」との認識を持ちつつ、大した内容の無いブログだけ見て読んだ上での発言ではないですか?つまり、ブログの上辺だけしか見ていないのでは、と思われます。
本サイトのブログにコメントした私は、「良い言葉(文)」に出会い、心打たれたからなのです。「世に無数のブログあれど、心を打つコンテキストは多からず」には違いないのですが、全てを一緒くたに「浅はかさと愚かさの露呈」と言い放つのは“酷い認識”だと云えます。
不適切な引用で管理人さんには申し訳なかったのですが、これからも素敵なブログを書き続けて欲しいとの気持ちからでしたので是非、良きご理解を下されば、とお願い致します。
今後とも宜しくお願い致します。
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