An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
版と刷
群像社のような極小出版社でも最近は在庫がなくなって「重版」する本がぼつぼつでてきた。儲け主義に徹すれば「初版売り切り・重版なし」というのが最も効率的といわれるけれど、そればかりしていると「最近の××社の本はすぐ品切れになる」などと不評をかうことになる。「売れて在庫がなくなったんだから、重版は儲かっている証拠じゃないの」と思われるかもしれないけれど、重版は売れ足が遅いから、コストの回収に時間がかかり、出費が先行するので、俗に「重版貧乏」などと言われて小社のような小さなところは特に資金繰りとしては一時的に苦しい状態になる。おそらく似たような状況はどこにもあるのだろう、どこの社でも何でも品切れ即重版とはなっていない。重版のときには少しでも売行きに勢いをつけるために、「書物復権」と名付けて数社共同でフェアをしたりする(企画一年目にこれは一読者としてもありがたいと思ったものだ。「復権」される前の本は古書店でたいがい高値をつけていて、なかなか手がでなかったりするし)。

それはともかく、重版となると、出版社としてはそのたびにどこまで「直す」かで頭を悩ますことになる。原則をいえば、奥付に「初版第2刷」として出すわけだから、奥付以外は「初版」をそのまま使って「刷」るだけ、つまりいっさい直さないで刷ったものを「重版」(同じ「版」を「重」ねて刷るの意味で)あるいは「増刷」(1刷…2刷…3刷…と増し刷りする)というべきなのだけれど、やはり初版を出してから見つかった誤植があれば直すし、著者や訳者からどうしても直したいといわれたら「初版」といいつつ、直してしまう。ただ問題はその「程度」で、以前は重版の直しは「頁が動かない範囲」(つまり次の頁に影響が出ないように)といわれたものだ。おそらくそれは、活字時代の印刷方法が「原版」(活字を組んだ状態)→「紙型」→「鉛版」というハードなものであったからだろう。行が動いて次々と直しが伝染していったら、もう活字を組み直した方がいいと印刷所の現場で言われてしまう。組み直せば当然これはもう別の版で、奥付は「第2版」とすべきもの。そのあたりから、いまでもなんとなくあまり極端な直しはしないものという意識がはたらいてしまう。

ところが、最近のようにコンピュータで組版をする時代になると、原版そのものがソフトなせいで、編集者でも簡単に直せてしまうから、逆に始末が悪い。たくさん直しても、「初版」ですといってそっぽを向いていられる。とくに最初の出来が悪かったりすると、できれは「初刷」「2刷」くらいまではなかったことに……なんて編集者のほうがいいかねない本も出てくるかもしれない(もうあるか)。かつて、奥付に「10刷」とある本で、どんなに探しても途中の「刷」が見つからないなんていう伝説があった。売れていると見せかけるために途中の「5刷」「6刷」あたりをすっとばして、「堂々第15刷」なんて広告を打つなんていう「ウラ技」を噂で聞いたこともある。いまふうにいえば「奥付偽装」ということになるのだろうか。「初版」の本の中味が最初の「刷」と最後の「刷」で大きく違っていたら、これも「奥付偽装」といわれても仕方がないのだが、いまのところ社会問題になっていないのは身体に影響がないからか……。

重版や増刷の直しの程度は、現実にはいまはほとんどどこでも編集者や出版社の「意識」(「良心」?)にゆだねられているのだろう。論文などでは文献表示に初版以外は「第×版」と入れるような基準があったと思うけれど、同じ初版であまりにも中味がちがっているようなら、「刷」までいれないと正確な文献表示ならなくなるということになる。それよりも、出版社があきらかに版をいじるような直しを入れたときには、すなおに「第2版」とすればいいだけの話かもしれない。初版で「はずかしい」思いをしたのなら、素直に「版を改めました」と反省して告知すればいい(と深く自戒をこめて思う)。そうでないと同じ「版」だと思って古い「刷」で買って読んだ読者に「だまされた」といわれかねない。