An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
声に出して読めない日本語(1)
「ー」が問題なのである。ところが、この「ー」はこれだけでは声に出して読むことができない。日本語の五十音順の文字はすべて声に出して読むことができるのに、「ー」だけはどうして無理だ。たしかに「っ」や「ょ」もそれ一文字では読めないけれど、「小さい〈つ〉」とか「小さい〈よ〉」と呼べる親の文字がある。ところが「ー」にはそれもない。私たちの仕事ではこれを「音引き」と呼んでいるが、一般には「棒引き」とも言われ、辞書には「長音符号」として出ている、日本語の文字のなかでは例外的に、音を指示するだけの記号なのである。
 この「ー」問題に日々仕事でつきまとわれている。なんでも「ー」は江戸時代に外国語を日本語で表記するときに前の音を引っばってのばすという意味で「引」の「|」をとって使ったのが始まりという説もあるくらいだから、ロシア文学の紹介や翻訳を仕事にしている以上、「ー」問題から逃れられないのは仕方ないのかもしれない。その問題とは、つまり、「ドストエフスキー」か「ドストエフスキイ」か「ドストエーフスキィ」か、はたまた「ドストイェーフスキー」か、という問題なのだ。
 もちろんどの「ドス」も同一人物の作家で、違うのは翻訳された日本語のほうだけだ。この違いには学派のようなものがあって(と勝手にそう思いこんでいるのは私だけか)、「ー」の入れ方のこだわりを見ているとなんとなく大学の系列が浮かんで見えてくる。

では、わが群像社はどうかというと、創業者が早稲田大学の露文出身だったせいか、かつては「ドストエーフスキイ」派で、最近は「ドストエフスキイ」を推奨させていただいている。それでも、翻訳者や著者が「ドストエフスキー」でなければ嫌だと言えば引き下がらざるをえない。なぜ「スキー」ではなくて「スキイ」かと言えば、ひとつは「ー」が文字ではないという最前の理由もある。その点でいえば「ニイチェ」「ポォ」「ボドレェル」「ヴェルレヌ」といった音引き否定派に近いと思われるかもしれないが、なにも「ー」を敵視して締め出そうとしているわけではない。ロシア語の単語にはかならずひとつ「力点」と呼ばれる、アクセントを置いて強く発音する箇所があるので、それを日本語で示す必要があるときのために「ー」をとっておきたいという思いがあるからなのだ。つまり「チェホフ」でなく「チェーホフ」、「プゥシキン」でなく「プーシキン」というようにアクセントのある位置に音引きを使いたいというのが、「スキー」ではなく「スキイ」にしている、第一の理由なのだ。

もちろん日本語の「ー」は外国語を片仮名で表記するためだけに使われているわけではない。「先生」を「センセー」と呼ぶときの軽さ、「微妙」を「ビミョー」としたときの意味の違い。「ー」は日本語のなかできちんと機能していると言える。かつては「おかーさん」とか「おとーさん」という平仮名表記も慣例としてあったようだが、日本語の「標準」を決めるお偉い「センセー」がたが、これを禁止して閉め出したという歴史があるらしい。ロシア人名に多い「××スキー」の「ー」は、「センセー」の「ー」と同じではないかもしれないけれど、やはり語尾の「ー」には締まりのなさがつきまとってしかたがない。ちなみに、最後の「イ」はロシア語では「短いイ」と呼ばれる文字で、アクセントではないし、前の音を音を長く伸ばすという指示でもない。(つづく)