An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
三崎亜記にはロシアSFの匂いがする
[6]三崎亜記の作品にはロシアSFの匂いがしてならない。『となり町戦争』が文庫化されたのをきっかけに、新刊の『失われた町』と短編集『バスジャック』をつづけざまに読みすすんで、はまればはまるほどその思いはますます強くなってきた。SFともファンタジーともつかない不思議な世界、とか、日常の中にふいに入り込んでくる不条理な世界、とか、複雑すぎる設定が慣れない読者にはとっつきにくい、とかそんな三崎作品に対する評価を聞くと、それはまさにロシア・ファンタスティカの翻訳物に与えられた日本での評価とそっくりじゃないか、と群像社がストルガツキイ作品をせっせと出していたころのことを思い出してしまう。

だいたい「となり町」と「戦争」という一見相容れないものをぴたっと組み合わせてそこに人間を放り込んでいくという設定は、ストルガツキイ兄弟のSFでも得意中の得意定番の世界で、それはたとえば『月曜日は土曜日に始まる』で主人公の若い科学者が放り込まれた「魔法妖術科学研究所」(「魔法妖術」と「科学」のセット)なんていう場所に端的に現れている。

その『となり町戦争』で、のっけから主人公の「僕」の郵便受けに入っている〈戦争広報〉が「下水道フェアのお知らせ」や「引越し業者のチラシ」と混在しているのを見ると、三崎亜記はゴーゴリのファンタジーの詩学を自家薬籠中のものとしているんじゃないかとうれしくなってしまう。いやもちろん、もっと広範なファンタジー理論に裏づけられた本人の才能にほかならないのだろうけれど、ひょっとしたら群像社で出している『ファンタジーの方法』もそのなかのひとつとして読んでくれてるんじゃないか、などと片思いをつのらせてしまう。「日常と背中合わせの奇妙で不条理な世界」は、一見取るに足りないような細部の積み重ねという「細かい演出」によって成り立つものであることを三崎亜記は知り尽くしている。だから短編「動物園」の出足のところで「私」が「競走馬が蹄を鳴らすように足踏みをして」ヒールの具合を確認するところなんかは、あとあとこの細部が生きているなあと読み返してひざをたたかずにはいられない。

直木賞候補になっていたことも知らずに読み始めていた最新作の『失われた町』にいたっては、設定の「とっつきにくさ」はこれまでの作品の中で群を抜いている気がして、かえって「いいぞ、いいぞ」と声援をおくりたくなった。

「町」というものが「都市」というときより人とのつながりを前提としているように思える言葉だけに、その「町」が人びとを断ち切るものとして、人間が生きていくために「処分」しなければならない対象となる事態は、日常がかかえこんだ不安をくるりと外に剥いていて見せてくれる。そんな三崎作品を読みながら頭の中でチラチラしていたのは、ここでもまたストルガツキイの世界だった。三崎作品で「町」が主人公だとすれば、たとえばストルガツキイの『そろそろ登れカタツムリ』では「森」が主人公。ロシアにとって森は歴史的に見ると外敵から身を守る楯であると同時に自分たちの生活のためには切り開いて進まなければならない障害でもあった。人間に対して安心と不安というふたつの顔をもつ「森」。森は最初は「興味をそそるロマンチックな場所であり金になる場所として、あるいは多くのことが許される場所であり身を隠せる場所として」多くの人が惹かれるが、そのうちみな「森を怖がるようになり、そのうち急に〈ここはほかの場所と同様に混沌としていて秩序がない〉といい」だして、だれひとりそこで暮らそうとはしない」……こんなふうに描かれるストルガツキイの「森」のモチーフは、思わず三崎亜紀の「町」にもそっくり重ね合わせ響かせてみたくなる。

わたしたちが安心のよりどころだと思っている関係や空間(家族や夫婦、家や町)が実は不安のかたまりであったり、まったくの空白地帯であったりするんじゃないか……そういう物語世界をこれでもかと見せてくるロシア・ファンタジーの魅力(魔力)は、ストルガツキイだけではなく、現役最前線のペレーヴィンの作品にもしっかりと受け継がれている(群像社の今度の新刊『チャパーエフと空虚』では主人公が「空虚」!)。そんなロシアの作家たちと三崎亜記の本を一緒に並べた本棚を眺めていると、それがまた新たな空間を呼び出してくるような気がしてならない。 (07.3.31)