An Editor in columns コラムの中の編集者
ロシア文学を専門に出版している群像社の編集者がつづるエッセイ、日記、本の周辺をめぐる話から日々の雑感
一人の出版社なんですけど…
[3] ひとり事務所で仕事をしていると――ときどき「本当にひとりで全部やっているんですか」と聞かれるけれど、本当にひとりなんです――外の世界からとんでもないものが飛び込んでくることがある。といってもそれは、ヴォズネセンスキイの「O」みたいに常識を越えたとっぴなものではなく、むしろその反対が。

 当然ひとりなので、打ち合わせに行ったり納品に出たりすれば、そのあいだは事務所は留守となる。その間の対応は留守番電話に託すわけだけれど、先週はこの留守番電話に「ブーニン作品集」について読者からの問い合わせがはいっていた。

「お留守のようなので10分後にまたかけなおします」という女性の声の主は、おそらくきっかり10分後に電話をしてきたらしく、次のメッセージでは「10分後に電話をするといったのに、また電話に出ないとは、係りの人はいったい何をなさっているんでしょうね。こんな不誠実な対応の出版社の本は、もう買いません!」

 「係りの人」? そう、この女性は出版社であれば当然常に電話をとる「係りの人」がいるにちがいない、と常識的にそう思ったらしい。「会社」が一人のはずがないでしょう、と。かくして、群像社はこの日、10分間でひとりの読者を失った。

 もちろん非常識なこちらに非があるかもしれず、と思い直して、まずはこの日おおあわてで未更新だったホームページ上のシリーズ案内に「ブーニン作品集」の全巻構成をうちこんだ。いまは失われたくだんの読者はすでに既刊分を購入した由。そこに刊行予定がはいっていないのも不満の原因だったようなので(たしかに、それはこちらの不手際)、次回配本からはこれも忘れずに、と肝に命じた。

 それにしても、と思う。「文学」が「世界の『価値』の逆転する世界」(白井愛)だとするなら、こうした「常識」で身を固めた人は、どんなふうにブーニンを読んでくれたのだろう。文学より先に会社のほうが「逆転」しまっている、なんとも「文学的な」出版社ならではの読者喪失というべきか。(06.10.17)

コラムの間で
[2] タイトルや見出しを決めるのは編集者の大事な仕事のひとつ。この仕事を始めた頃はそれが苦手で、雑誌に掲載する文章のタイトルや見出しのつけ方で何度ダメだしをされたことか。このページのタイトルも本当は悩みに悩んでつけました、と言うべきところなのだが、じつは意外とすんなりとここに落ち着いていた。

 「編集者のコラム」ではなく「コラムの中の…」なのは、編集者なんて依頼して書いてもらうコラムにはさまれて生きているような存在なので、という思い(よく言われる“黒子的存在”)もあったかもしれないけれど、じつはそれよりもコラムのもうひとつの意味、つまり「円柱」の間をこそこそ動きながら本を作っている自分の姿を素直に言ってみたというほうが正直かもしれない。
この場合のコラム=円柱とはもちろん事務所に山積みになった本で、その中にうもれながら毎日一人で這うように仕事をしていると、時々本の隙間から姿をみせるクモすら、同居人として愛しくなってくる。さすがにゴキブリや蚊まで愛ではしないけれど(このビルには、なぜかやたら蚊が多い)、『虫の生活』をつくっている頃は、蚊に人格を感じてしまって、叩きつぶすのをためらって、追い払っていた(この連作短編風の小説で最初の章に出てくる主役は「蚊」なのです)。

そういえば、学生から社会人になってすぐ、毎日のように新宿に飲みに連れて行ってくれた上司の今は亡きTさんは、いつもボトルに名前の代わりに「虫」と書いていた。きちんと理由を聞かなかったけれど、Tさんは自分を虫と思うことで心の安らぎを覚えていたような。私の「虫的人間」とのつきあいは、もう20年以上前に始まっていたわけで。

 ちなみに前回ふれた「みんなのうた」のフンコロガシの歌の題名は「フンコロガシは、忙しい」。作詞・作曲「つかもと・ひろあき」でした。つかもとさん、『虫の生活』読んでくれたかな。(06.10.1)