引越し早々、「この本売ります」に問い合わせをいただきました。ページは古いですが消していないものはまだ持っています。引越しで整理しながら、また少し出せるものが見つかりましたから、こちらもそのうち更新します。
素材がいいものであることにこしたことはないし、素材がよければ、ほとんど手をかけないでも客に充分よろこんでもらえる。もちろんそれも、素材をいかすような、切り方、出し方、盛り付け方があっての話だ。どんないいネタでもさすがにプラスチックのトレイにのせて出されたら「家じゃないんだから」と客はひくし、せっかくの素材も切り方ひとつで一変する。ものがいいからといって、やたらたくさん盛りつければいいというものでもないし、素材を引きたてる飾りも器も当然料理人が考えたうえでの「料理」だ。
料理は素材次第といっても、なまものが相手だから、つねに一定のレベルの素材が手に入るわけではない。家庭料理ならば、その日の財布の中身に応じて、安いものだけ見繕って買って帰ることもあるし、気分によって一点豪華主義でいくこともできるけれど、店の看板を出している料理人の場合はそうはいかない。いつも一品1000円いかない程度で料理を出している店が、今日は2000円3000円の料理ばかり並べ、明日は全品300円なんてことをしたら、常連客はけっしてつかない。日々違う素材を仕入れては、それを工夫して一定の価格帯の中で、ある程度の品数を揃えなければならない。そのために料理人は、素材の組み合わせや味つけを工夫して、客の満足のいく料理を一品一品をつくりあげる。料理人の腕の見せどころだ。
素材の扱い方は、基本は基本としてあっても、つねにこれでなければいけないというわけでもない。大根の切り方一つとっても、しんなりさせるかしゃきっとさせるかで、繊維にそって切るのも繊維を切るのもどちらも正解だ。素材のかたちを残しておいしくつくることもあるし、素材が見違えるほど手間ひまかけて仕上げることもある。いい素材に料理人のセンスが加わって、料理は引き立つ。そしてその料理には必ず名前がつけられる。メニューに並ぶ料理の名前は、素材とかけ離れていては客も頼みずらいから、基本的には料理された素材の内容がわかるような素直につけた名前でいいわけだけれど、ときどき「あれっ、なんだろう」という名前の料理が出ていて、思わず客の食指が動く、なんていうこともある。定番はなくては寂しいけれど、新メニューもまた楽しい。
料理は料理人次第、とはいっても、料理人の自己主張があまりに強過ぎると、客はしらける。「おいしいから、おいしいから」と大声でやたらすすめたからといって、客が注文するとはかぎらない。客を前に、料理のことは自分が一番知っているという顔をされても、客はひく。やはり、できあがった料理が雄弁に味を語ってくれるのが一番だ。横のお客がおいしそうなものを食べていると、「それ、こっちにもひとつ」となるわけだ。
料理は学校では身につかないと料理人は言う。調理師免許はとらせてくれるかもしれないけれど、料理はやはり現場でしか身につかない、と。その現場も、ホテルのような大きな組織の調理場と、カウンターをへだてて客と向き合う店とでは、世界が違う。何人かのチームで動く調理場と、カウンターでお客と相対しながら何もかもひとりでこなさなければいけない調理場とは違って当然。一人でやっている小さな店では、客の反応を見ながら料理を出し、店をきれいに保つことに気をくばり、一定の経営を維持していけるようなコスト管理まで料理人が考えなければならない。大きな組織の一員として、専業料理人として給料をもらう身とは、かけ離れている。もちろんどちらもプロの料理人ではあるけれど、料理人として独りだちするには、やはり直接お客さんにふれないといけないらしい。
これはどれも居酒屋のカウンター越しに聞きかじった話。
編集者の仕事は、料理人の仕事に似ている。いつのころからか、そう思うようになった。料理人とひとくちにいっても、中華もあればイタリアンもフレンチもあるし、ひと口に和食といっても、天麩羅や鰻だけでやっている店もあれば、寿司屋もあるし、高級料亭から大衆小料理までいろいろある。
いずれにしても、料理人のいない料理がどんなものになるかと考えるとぞっとする。編集者のいない本がどんなものになるかを想像して、ぞっとする人がどれほどいるだろうか。編集者なんかいらないと思われているとしたら、それは編集者が客の顔も見ないできちんとした仕事をしていないせいか、素材さえよければ手掴みでも食べるという人が増えているかの、どちらかなのだろう。


